獄窓村木1

村木2


村木3

村木4
村木5

牢獄に倒れた二人の同志  『労働運動』掲載 192521日第八号


同志諸君──

諸君の知る如く、村木君は、もの優しい、友情に富んだ人格であつた。多くの同志が、君の温かい情けと親しみにむよつてどれだけ慰められてゐたことか。そして僕等は、口にこそしなかつたが、どの位い心から感謝をしてゐたことか。

 しかしながら、村木君はたゞもの優しい男ではなかつた。優しみの底に、侵すことの出来ぬ或るものを持つてゐた。あの、人を食つたやうな食はないやうな態度、何にもかも知つてゐるやうな知らないやうな態度。加ふるに非常な理想主義者であつた彼れ、感激に富んだ彼れ、彼れこそは或る仕事にかけては、我等の唯一者であると思はしめるものがあつた。

 しかし、彼の生涯は沈黙の生涯であつた。何事かを期しての沈黙の生涯であつた。彼れは遂に最後までこの沈黙を守つた。


 諸君よ、諸君は本誌第三号『大杉栄追悼号』に書いた村木君の言葉を想ひ起すであらう。
『……いつ、どこでだつたか、五六人の同志が落ち合つた時、いろいろの話の末に、俺の噂さを初じめた。一人が「彼奴は文章は書けず、演説はせず、宣伝は不得手、実際運動には参加せず、かてゝ病身、一体どうして主義者になつてゐるんだらう」と嘲笑した。そして皆んな同じやうな意味を語つた時に(大杉君が』彼奴は彼奴で、彼奴相当の仕事もある、黙つて見てゐたまへ。俺は後で誰れかからこの話を聞いて本当に嬉しかつた。……』

この喜びこそ、真に己を知るものへの喜びである。村木君の温かい手は、常に僕等の手を強く握つてくれた。僕等もまた『源ニイ』として彼れに親しんだ。だが、彼れの手は、同志の手を握るのみの手ではなかつた。彼の手が懐にある時は彼れは其の手で冷い或るものを握つてゐた。それを何れに向つて差し出さんかを考へてゐた。感激に満ちた彼れの胸──。そして其の胸が、仲間に対しては大きく柔らかく開いた。

 しかしこの村木君も、遂に業半ばばにして殪れた。奴等に対する尽きぬ恨みを残して我等から去つた。

 同志諸君──。我等は、彼れの感激を、覚悟を、決心を、我等のものとして生かさうではないか。  

                        近藤憲二

<東京日日>

1.24

村木源次郎獄中で危篤

特に同志と面会させきのう責付出獄

昨年九月本郷に起こった某重大事件の共犯者たる村木源次郎(三六)は爾来市ヶ谷刑務所に収容されていたが持病の結核つのりあまつさえ肝臓の堅化で廿三日突如危篤に陥り意識明瞭を欠くに至ったので刑務所では直ちに東京地方裁判所に急報し平田検事沼予審判事は黒瀬書記を従え午後二時四十分刑務所に急行布施弁護士秋山所長立会のもとに大草主任医師が診断を行った結果当局は特に本人の希望を入れ同所に収容中の同志和田久太郎古田大次郎の二人に面会をゆるした右両人が病床に出た時は村木は意識遠く苦しい中から『泣いたって仕方がないじゃないか…苦しいこともないことはないが……』ときれぎれに辛う

じて口をききやがて苦しげなうなり声を出して眠りに入った

 枕頭に泣伏す妻同志に護られ労働運動社へ


午後三時半ごろ急をきいてあわただしく同人の内縁の妻延島ゆきが駆けつけ大声あげて
口元にすりよった時はさすが立会の人々ももらい泣きをさせられ凄惨の気で満された、その時の彼れは重苦しい息のみで意識は殆ど絶えていた、最後に処置を講じたが『息をひき取る時は是非他で……』という願いであったので判事もそれを容れ責付にして布施弁護士に引渡した、同氏は後ればせにかけつけた山崎今朝弥氏と相談の結果駒込片町一五の労働運動社に引取ることとなり午後六時近藤憲二その他の同志にまもられ自動車で引きあげた

上奥山竹■両医師の診断を受けたが殆ど絶望である