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大正十四年十二月十三日

 漸くの事で此の手紙を書かせて貰ふことになった。九月以来だから、一寸久し振りだ。皆々無事壮健の事と信ずる。

 先達って、近藤君と共に桂(望月)君が面会に来てくれたのは、大いに嬉しかった。厚くお礼を言ふ。近藤君へは残念ながら発信は許されない。面会の時に兄貴が見て行った通り、僕は此処へ来てから更に太ったやうだ。十月に一寸痔をやったが、直ぐ買い快くなった。其後、大いに丈夫だ。安神あれ。

面会のとき尋ね落したのだが、僕が東京で最後に出した戯画の手紙や、万年筆や、僕の遺筆『鐡窓三昧』『あくびの泪』など皆届いたかね。それと、松谷弁護士に送った参考書と布施弁護士に送った最後の分とは落手されたらうか。殊に、松谷弁護士に充てた分(『死刑を直視しつつ』)は、今度の事件に対する僕の感想の唯一のものと信じてゐるので、心係りだ。

本、筆墨は、規定によって入獄後六ヶ月、即ち来春三月下旬でないと許可されない。それも、行状善良、作業課程終了の者でなければ駄目だ。僕は、行状は優等だと称されてゐるが、作業課程は半分しきゃ出来ない、三月までには是非終了に達せねばならぬので、当今はそれに一心不乱だ。何にしろ、君も知ってる通り、僕は本を読まねば生きてゐられないといふ困り者なのでねえ、呵々。

ところで、筆墨は所持金で買へると思ってゐたのだが、十円以上持ってゐないと使へないのださうだ。で、三月中旬までに十円送金してくれないか。そして、その序に、改良半紙百枚、毛筆細用二本、雑記帳五冊をも郵送願ひたい。本は既に取揃へてある対訳英文叢書の中で極くやさしいのを四、五冊と、原書では、一度東京の獄へ入れて貰った『ライフ・オブ・デス』と、社にあるファブルの通俗科学叢書の中の(天文か物理の分)一冊と、都合二冊願ひたい。和文のものは当分いらないが、俳句集を一冊是非欲しい。探して買ってくれ。後はまた後だ。

……

 大ぶ寒くなったが、まだ雪は積らない。毎日々々殆ど風と霙と霰ばかりだ。例年十一月末から雪が降り出して十二月初旬には可なり積るんださうだが、今年は暖くて未だ積らないのださうだ。今日なんか余程寒く感ずるが、寒暖計は十三度ださうだ。去年の今頃は四、五度だったとの話。寒に入れば零下五度位いの由。しかし、寒さよりも毎日の陰鬱な天候には大閉口だ。雷がよく鳴る。北国は、夏でなく、冬に雷が多いのださうだ。風はは随分はげしい。大風の日には、日本海の沖鳴りが聞へる。部屋は広くて清潔だ。空は東京の方を向いてるから、西日が少し差入るので嬉しい。が、見えるのは空ばかり………それも一週間のうち五日まで風雨か曇りかだ。鴉と鳶が多いやうだ。鳩も少し居る。雀は少ない。

 東京監獄では平均一日に二通の手紙を受取ってゐたのに、此処へ来てからは一回もまだ来ないので大いに淋しい。返書を待つ。しかし、東京でのやうな訳けには行かないから、手紙の文句は、よく気をつけて慎重に願ふよ。折角くれた手紙が読ませられないやうな事があっては、余りに残念すぎるからなァ。では、又、次は二月だ。皆によろしく。

 近詠二首

壁の上にぢつと動かぬ蠅一つ冬をや眠る息やとだへし

壁の上にぢつと動かぬ蠅のごと我れも命を此処に終るか 


返事をくれる時、一寸姫路の兄の処へハガキを出して、書き添える事はないかと尋ねて見てくれ、お願ひする



秋田からの書簡

 大正十五年二月十一日

 一月十三日附貴翰十八日拝見。お察し通り、始めは雁の如く、次に鶴の如く、時経っては麒麟の如く、大いに伸首して待てり。しかも披見に及んで、僕よりの依頼せし事情の為に遅れたるを知り、恐縮、大恐縮、首は忽ち亀の如く引込み了んぬ。思ふに国元の兄共、僕達との交通を気味悪しとやと思ふ為めなるべし。又是非もなからんか。以後は不問々々。

 僕の手紙集発刊のこと素より異存なし、万事お委せせん。たゞ編輯者の参考までに我身を述べんか、手紙の提出は各持主の自由意志に任せ、しかも駄文、楽屋落ち等の抹殺に意を用ふべき事。広く集むべき事。近藤君に変輯の後見を願ひたき事。俳句和歌の類の、後に改めしもの多くあれば「あくびの泪」「鉄窓三昧」等によって夫々訂正されたき事。……

 単衣にレインコートの写真の僕に、福子さんが暖かくビロード服を着せて下されし由、お陰を以て極寒の獄中に在って風邪一つ引かず、有難う!!彼の写真は、逗子でも鎌倉でもなし、同じ相州の鵠沼也。確か十年の夏なりしと憶ゆ、大杉と共に鵠沼東屋旅館に滞在して「昆虫記」翻訳の助手をなせし時に、大杉が遊び半分に写せしものの一つなり。いま当時を追想し轉た感なきあたはず。魔子にも愉快なりし記憶の一つなるべし。

 ……

 送附を頼んだもの全部送るとのこと感謝に堪えず。ところで、もう少々無心を付け加ふ。半紙百枚を二百枚と訂正。東京監獄で使用していた「辞林」と年鑑とを同時に願へれば幸甚。古田(大次郎)君の遺稿も見たし。先きに依頼せし「俳句集」、もし適当のもの見当らねば、久米正雄君に僕が頼んだと云って、碧梧桐選のむ「続日本俳句鈔」二冊を借りられたし。

 小生の作業振り、其後、刮目に値す、御安堵あれ。即ち謹賀新正の餅の力、御馳走の力により2分の一の能力は忽ち五分の三と進み、加ふるに懐中湯たんぽを二個抱かさるに至り更に三分の二に騰り、二月に入ると同時に、課程の頂上に登りては落ち、登りては落つといふ姿なり。今一息、今一歩。

 僕の健康に対する奥山先生の御注意厚く受く。深く謝すの旨、伝声あれ。禅書は読めど、寒時には身を寒殺する底の悟道には達せず、静座、屈伸法、冷水摩擦を用ひて寒威と善戦なしつつあり。但し、苦笑を浮べて小音に申上ぐらく、大寒に入りて流石に些か屁古垂れ、四五日前、軽き脳貧血の気味にて一日横はれり、従って体重も少々減少。されど未だ、東京時代よりは太り居れば安神あれ。寒さの峠も既に越えしやに覚ゆ。積雪三尺を越えず、秋田としては例年になき暖冬といふ。こんな事で最初の冬を通過出来れば、先づ幸ひとすべき也。

 折々我家を訪問給はる教務主任、一日訪ふて曰く『ホホー、だいぶ雪が吹き込んだナ。いや、これが秋田の不思議ぢゃて。二重硝子の所でも矢張り吹き込んで来るのぢゃ、不思議ぢゃナ、ハッハッハッ……』と。けだし、秋田蕗よりも此の方がお国自慢のやうな口振りなり。されど、秋田を初めての小生には、不思議はこれのみなあらじかし。布に包める膝小僧の凍傷。夜、着布団の表皮の濡れることなど、可なり小首をひねらされたり。兼ねて聞き及びたれど、雪雷、氷雨、怒涛の如き烈風も珍らしく、雪の凍りついた窓硝子の美しさにも驚きたり。

 雪氷雨吹き込む窓を頼みかな

 水洟や冷々として骨を滴る

 湯姿を抱いて更に愚とならむ

 今日は紀元節で、御馳走を食ってお休みだ。恨むらくは相変わらずの曇天強風。君からの手紙№4の初め三行ばかり悪かったらしい。御注意々々と申す。

 狂體一首         柿色囚屋麿 かきのいろのひとやまろ

 足引きて首をちぢめて雪の降る

   寒む寒むし夜を独りかも寝む


昭和二年三月十三日

 …恩典は予期しなかっただけ、それだけ喜びも大きかった。君の言葉の如く、これで『どれだけ心丈夫かしれない。』たとへ十八年後の遠い所にでも、兎にかく一点の光明が認められるやうになったのである。その遠い所の一点の光明が現在の心持の上に照り輝く力は大きい。私は嘗ての遺言的な一文の中に「この体は三年はもつまい」と書いて置いた。が、当所へ来てから、だんだん「なあに、さうでもない」といふ自信が出て来、更らに此の度びの光明によって、再び社会に出られるかも知れないと、夢が楽しめるやうになって来た。喜んでくれ。

 いま私の読んでゐる『旅人芭蕉』といふ本の中に、次の如き文章がある。

『自分も随分迷ったものだ、もがいたものだ、希望から焦慮へ、困憊から懊悩へ、人間として嘗めなければならぬ苦しみは大概味って来たのだが、……それは、譬へば日陰もない野を、ぐんぐんと毎日歩き続けてゐたやうなものであった。そして、それは生きるために唯一つの道だと思ってゐたのではあるが、今から考へれば、自分は生きようといふ意志にむきになり過ぎて却って本当に生きられなかったのだ。自然のままに生かして貰ふ、といふ受身の気持になりさへすればいいのであった。……』

 近頃は斯ういう言葉に、しみじみと親しさを感ずるようになった。

『獄窓から』が三月に出版されるとの事、諸君の尽力、殊に近藤君の骨折りを厚く感謝する。出たら早速送ってくれ給へ。……

『古田大次郎遺稿』を獄窓から』と一緒に送ってくれ。読ませられるらしいから。

 皆んなによろしく。

 寂しさを敲きにくるや窓霰

 金網を掻き鳴らしけり玉霰

 月の砕け落つるとばかり霰かな

 躍れ躍れ天の童の玉霰


昭和三年一月九日

地球がガタンといふ響きと共に廻轉して、此間お芽出度い昭和の三年がやって来た。

 さてお芽出度う。久さんも御年三十六歳にならせられた。君も、ふく子さんも、桂君も、公っぺいも、明坊も、皆んな間違ひなく一つだけ年をとつた事と考へる。すると、明坊は早や三つになった十露盤だな。プッ。生意気だな、たつた十四ヶ月のくせに。姉ちゃんの公っぺいは二年になれさうか。マコは何年生かな。

 五日のお休みに「クックコックの子守唄」の蓄音機を聞いて、公っぺいもこれを唄ってゐるかなと思った。そこで、僕が去年の十一月末に童謡を一つ作った事をも、ふと思ひだしたから、それを公っぺい嬢に進呈する。お年玉だよ。

冬からす

白く日の照る

冬木立

うしろは汚れた

雲の幕

からすがカァカァ

啼いて行く。

三四羽

五六羽

また三羽

「風がやんだぞ

カァカァカァ」

続いて

五六羽

また三羽

「お山が白いぞ

カァカァカァ」

白く日の照る

冬木立

うしろは汚れた

雲の幕

からすがばらばら

飛んで行く。 

 どうだ、すてきに旨いだらう。感心したなら感心したと、次の手紙の時に「ねのちゃん」に書いて貰ってよこしな。

 手紙の時にいつも俳句や歌を書いてやるのに、たまに一度位はほめて寄越すものだよ。こんどは一回やめるけれど。

「まだ機を織ってるか」なんて、何を云ふんだい。一ヶ月きりでやめたと、夏頃の手紙に詳しく書いたぢゃないか。もうあれはこりこり。

「大晦日の思ひ出」は面白く読んだ。つっするところ、近頃また米屋に借金が払えへないな。呵々。

 ふく子さん、手紙有難う。次回のを楽しく待ってゐます。

 年末、体重十四貫弱。あんまりふえてもゐなかったっけ。風邪引かず、凍傷出来ず、痔はほんの少し痛い、胃弱は慢性、お正月のお餅を食ひ残した。元日からずっとお粥を食べてゐる。もう癒るだろう。

 同封の手紙を姫路へ送って欲しい。

しんねん、おめでとう、兄さんも、姉さんも。けんいちも、ひでをも、しょうぞうも、母上も、みんな、きげんよく、よきとしをおむかへなされたことと存じます。こんなとこでも、やっぱり新年はなんとなくこゝろ嬉れしく、目出度く今年のおぞうにもいはいました。

 私は、何のわづらひもなく、また、さむさにもめげず、きげんよく、つとめてゐます故、そのだんは御あんしん下さいませ。めかたは十三ぐわん六百目あります。ただしおやゆづりのしらがは、だいぶ多くなりました。

 また時々お便りをいたします。お年の上故、さむさをおいとひ下い。

                           久太郎 拝

                                    母上さま