<久太と渋六 日なたぼっこの会の約束> 堺 利彦

<久太と渋六 
日なたぼっこの会の約束>
           堺 利彦



<久太と渋六 日なたぼっこの会の約束> 堺 利彦

和田久太郎君が去年以来、監獄から私によこした手紙を集めて、繰り返し読んで見た。

そこに『久太と渋六』の面影が(少なくとも私にだけは)非常に面白く現れている。

以下、それを抄録して見る。

「11行『獄窓から』に収録……しぶ六先生を真似て俳句を二三作って見ます。久太。

監獄の鳩もへったぞ秋の雲

秋の蝿がまじまじ俺の顔を見つ

小便で顔うつしけり今朝の秋

十三、九、十一」



「『獄窓から』


未入力 11行 


近作。

雑念に見る雲早し秋の風。

お隣は転房されて夜雲かな。

久太。 十三、十、廿」

「未入力


例によって近作二三。

浴み後のつかれ嬉しき小春かな。

座禅未だ芒が鼻を撫づ思い。

時雨来や麦飯の陽気温かく

噛みためし小石を捨てん冬の風。

十三、十一、六」

「先づ御芽出度う!

『年が又暮れる、僕は五十六になる』というのを見て「へえ__五十六!」と、急に貴君が老人になった様に感じましたっけ。

しかし、考えて見れば、売文社の玄関番だっ僕が、もう三十三ですからねぇ。

……貴君も大切にしていて下さい。再び社会でお目に懸かれたら、

日南ぼっこでもしながら昔し噺のお相手になりましょう。

十四、一、六」


註。この『日南ぼっこ』には由来がある。

 或時(原が刺されたり、安田が殺されたりした頃)私の家の縁側で、和田君と村木君と私と、三人が日なたぼっこをしながら、いろいろ昔話をした事がある。

その時、『飛行機その他続々落ちる小春かな』という私の俳句を、和田君が面白がったりしたついでに、

『梅毒と肺病と禿頭が日なたぼっこする小春かな』という様な即吟をやった。

「僕の監房に、ひさしと高塀の間から、朝廿分ほど日がさし込みます。 一番嬉しい時間です。

初日影一尺ばかり漏れにけり。

その僅かに見渡し得る塀の上の少し離れた處で、時々焚火の煙が見えます。……

憶うかな、焚火に映えし悲痛面。

十四、一、六」




「村木も死んでしまいました。死顔を見てやって下さった由、御礼申ます。

病監へ行って、その明くる日もう駄目だったんです。ただ、気持ちだけで保っていたような体でしたからねぇ!]

十四、二、十六」 (この村木が即ち、前記日なたぼっこの『肺病』だ。)

「2行未入力

…8行収録 ………句屑片々。

きらりぽたり雫す春のおもみかな。

長閑さが淋し過ると鳴く鶏か。

鶏の声霞んで眼には塀の笞。

<「あくびの泪」に収録>

(母を懐う)

古土瓶洗いて居ればたわいなくぽろと欠けたり母を憶いぬ

苦しみを歯に喰いしばる癖ありし母のその歯もいまは亡せけん

真ごころに神も仏も拝み得ぬ母の産みたる汝ぞと泣かれし

(十四、三、三一)」

「 <「あくびの泪」に収録>

(公判廷にて)

うち集う友と相見て笑み交わす法廷ゆえに楽しかりけり。

裁き給う尊き顔の鼻先きへひょいと飛び乗り蝿欲しぞ思う。

<「あくびの泪」に収録>

帰獄。

夕闇の空を仰げば病む友の青き手見えぬ帰り居るらし。

一茶句集は、いまだに香水の香が残っています。あれは為子夫人の御心づけだろうと思います。

よろしく。 十四、六、十七」

「体は丈夫です。御安心下さい。古田君は『菊の咲く時分に殺して貰いたい』と言ってるそうですが、

僕も秋が好いとは思うが、『桔梗の咲く時分に__』と言いたいですな。しかし獄には、

1行半抹消 

桔梗は見当たらないから『赤蜻蛉のとぶ時分に__』と言いましょうよ。

……馘れ馘れ。南京虫のくらいかす。……… 十四、七、八」


「収録 十四、八、十九」

「…… 飯入るる穴で即ち夕涼み。 ……

<「あくびの泪」に収録>

泥を吐く我は鮒かも青葉散る晨の風に深く息吹けり。

朝風の運動場に青々し落葉ひろい頬ずりにけり。

紡績の女工の如く蜘蛛の巣の白きを被ぐ花檜はも。

むくつけき花にしあれど女檜と聞けばやさしもあが妻にせん。

吾が妻の花の檜はおどろおどろ窓をへだててうちやつれ居り。

十四、八、二九」

「差し入れの御馳走、有難く頂戴しました。……<以下『獄窓から』に収録>

いよいよ僕の一番嫌だと思っていた『無期に決定しました。が控訴はしません。

……古田君が時分の直ぐ傍らで縊らるゝのを知りながら、自分は控訴してそれを見ているに堪えないんですよ。

気持ちがね…… それに、……

此頃では『十五年、廿年という刑と無期となら大した違いもあるまい、どうでもいゝや』というづぼらな気に成ってしまった事です。

……  さて、斯うなってくると、いつかお約束した『日南ぼっこ会』も少々空想の霞がかゝった様な感のないでもありませんな。

僕の思うのに、貴君も少なくとも此後ち『十五年間』は生きていて下さらないといけませんよ。

僕もいまから『十五年間』は、何んとかして、衰弱と病気とに(肉体的にも精神的にも)苦闘しながら、一生懸命生きて居ようと思っています。

『日南ぼっこ会』という、すばらしい理想の為に。

……… 赤に成ったら、またぼつぼつ英語と数学とをやりたいと思っています。

英語と数学が一歩々々 進んで行けば、そこへ自分の『生きて行く』という気持ちがよりよく自覚されようとおもってね。

それに新しい社会には、統計が……従って数学が……最も大切だと思うから、

僕の数学が実を結んで、しかもそれがその時の役に立つ……てな殊勝に望もあってね。

ハッハッハッハッハッ。まアどうかして麦飯で英、数を釣り上げたいものです。 

昨日の公判で、……僕は、判事が判決文の前段をくだくだしく読み上げているうちに、秋雨の音をきゝながら独り句作に耽っていました。

そして、言渡しの済んだ時には、確か三句ほど書きつけていました。いまは忘れてしまった思い出せません。

その句を。

秋雨を餞けらるゝ別れかな。

これはその日帰ってから作った句です。帰りの自動車の中では、

見納めの街は秋雨昼灯、

と駄句りました。下る迄には、まだまだメイ句が吐けそうです。……… 十四、九、十一」


堺生云。



九月十七日、私は和田君に面会して別れを告げた。今後十五年間生きる事は、

僕によりは君の方に可能性が多いと云うと、和田君はいつもの癖の、右の手で顔を一つクルリト撫でて笑った。

又、近々何かの雑誌に『日なたぼっこ会』の事を書く積もりだと云うと、ああそれはあんたの筆に似合った題目だと云って笑った。

私は今それを、こういうズルイ形式で書き現わした。


「和田久太郎君の事ども」

堺利彦

昭和三年二月××日、和田久太郎君が獄中で自殺した。

…… 先ず和田君の遺著とも云うべき『獄窓から』を少し読んだ。

少し読むと、あとからあとからと引続いて読みたくなる。

考えては読み、読んでは考える。手紙と俳句と随筆とが無限の興味と感慨を起させる。

…… 『この上はウンと馬鹿になって、生きられるだけは生きているつもりだ』と云った彼が、

とうとう矢張り自殺した心持ちも分って居る。

私のような、自殺の出来そうにない弱い男は、いろいろ苦しい思いをする。

彼の死んだという報知に接した時、私は胸がピタリとつかえるという感じもした。

久太の一生涯の荷がおりたのだ。

『もろもろのなやみ消ゆる雪の風』辞世の句も嬉しい。



叛逆者伝 和田久太郎君『自由聯合』

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秋田から 和田久書簡

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大正十四年十二月十三日

 漸くの事で此の手紙を書かせて貰ふことになった。九月以来だから、一寸久し振りだ。皆々無事壮健の事と信ずる。

 先達って、近藤君と共に桂(望月)君が面会に来てくれたのは、大いに嬉しかった。厚くお礼を言ふ。近藤君へは残念ながら発信は許されない。面会の時に兄貴が見て行った通り、僕は此処へ来てから更に太ったやうだ。十月に一寸痔をやったが、直ぐ買い快くなった。其後、大いに丈夫だ。安神あれ。

面会のとき尋ね落したのだが、僕が東京で最後に出した戯画の手紙や、万年筆や、僕の遺筆『鐡窓三昧』『あくびの泪』など皆届いたかね。それと、松谷弁護士に送った参考書と布施弁護士に送った最後の分とは落手されたらうか。殊に、松谷弁護士に充てた分(『死刑を直視しつつ』)は、今度の事件に対する僕の感想の唯一のものと信じてゐるので、心係りだ。

本、筆墨は、規定によって入獄後六ヶ月、即ち来春三月下旬でないと許可されない。それも、行状善良、作業課程終了の者でなければ駄目だ。僕は、行状は優等だと称されてゐるが、作業課程は半分しきゃ出来ない、三月までには是非終了に達せねばならぬので、当今はそれに一心不乱だ。何にしろ、君も知ってる通り、僕は本を読まねば生きてゐられないといふ困り者なのでねえ、呵々。

ところで、筆墨は所持金で買へると思ってゐたのだが、十円以上持ってゐないと使へないのださうだ。で、三月中旬までに十円送金してくれないか。そして、その序に、改良半紙百枚、毛筆細用二本、雑記帳五冊をも郵送願ひたい。本は既に取揃へてある対訳英文叢書の中で極くやさしいのを四、五冊と、原書では、一度東京の獄へ入れて貰った『ライフ・オブ・デス』と、社にあるファブルの通俗科学叢書の中の(天文か物理の分)一冊と、都合二冊願ひたい。和文のものは当分いらないが、俳句集を一冊是非欲しい。探して買ってくれ。後はまた後だ。

……

 大ぶ寒くなったが、まだ雪は積らない。毎日々々殆ど風と霙と霰ばかりだ。例年十一月末から雪が降り出して十二月初旬には可なり積るんださうだが、今年は暖くて未だ積らないのださうだ。今日なんか余程寒く感ずるが、寒暖計は十三度ださうだ。去年の今頃は四、五度だったとの話。寒に入れば零下五度位いの由。しかし、寒さよりも毎日の陰鬱な天候には大閉口だ。雷がよく鳴る。北国は、夏でなく、冬に雷が多いのださうだ。風はは随分はげしい。大風の日には、日本海の沖鳴りが聞へる。部屋は広くて清潔だ。空は東京の方を向いてるから、西日が少し差入るので嬉しい。が、見えるのは空ばかり………それも一週間のうち五日まで風雨か曇りかだ。鴉と鳶が多いやうだ。鳩も少し居る。雀は少ない。

 東京監獄では平均一日に二通の手紙を受取ってゐたのに、此処へ来てからは一回もまだ来ないので大いに淋しい。返書を待つ。しかし、東京でのやうな訳けには行かないから、手紙の文句は、よく気をつけて慎重に願ふよ。折角くれた手紙が読ませられないやうな事があっては、余りに残念すぎるからなァ。では、又、次は二月だ。皆によろしく。

 近詠二首

壁の上にぢつと動かぬ蠅一つ冬をや眠る息やとだへし

壁の上にぢつと動かぬ蠅のごと我れも命を此処に終るか 


返事をくれる時、一寸姫路の兄の処へハガキを出して、書き添える事はないかと尋ねて見てくれ、お願ひする



秋田からの書簡

 大正十五年二月十一日

 一月十三日附貴翰十八日拝見。お察し通り、始めは雁の如く、次に鶴の如く、時経っては麒麟の如く、大いに伸首して待てり。しかも披見に及んで、僕よりの依頼せし事情の為に遅れたるを知り、恐縮、大恐縮、首は忽ち亀の如く引込み了んぬ。思ふに国元の兄共、僕達との交通を気味悪しとやと思ふ為めなるべし。又是非もなからんか。以後は不問々々。

 僕の手紙集発刊のこと素より異存なし、万事お委せせん。たゞ編輯者の参考までに我身を述べんか、手紙の提出は各持主の自由意志に任せ、しかも駄文、楽屋落ち等の抹殺に意を用ふべき事。広く集むべき事。近藤君に変輯の後見を願ひたき事。俳句和歌の類の、後に改めしもの多くあれば「あくびの泪」「鉄窓三昧」等によって夫々訂正されたき事。……

 単衣にレインコートの写真の僕に、福子さんが暖かくビロード服を着せて下されし由、お陰を以て極寒の獄中に在って風邪一つ引かず、有難う!!彼の写真は、逗子でも鎌倉でもなし、同じ相州の鵠沼也。確か十年の夏なりしと憶ゆ、大杉と共に鵠沼東屋旅館に滞在して「昆虫記」翻訳の助手をなせし時に、大杉が遊び半分に写せしものの一つなり。いま当時を追想し轉た感なきあたはず。魔子にも愉快なりし記憶の一つなるべし。

 ……

 送附を頼んだもの全部送るとのこと感謝に堪えず。ところで、もう少々無心を付け加ふ。半紙百枚を二百枚と訂正。東京監獄で使用していた「辞林」と年鑑とを同時に願へれば幸甚。古田(大次郎)君の遺稿も見たし。先きに依頼せし「俳句集」、もし適当のもの見当らねば、久米正雄君に僕が頼んだと云って、碧梧桐選のむ「続日本俳句鈔」二冊を借りられたし。

 小生の作業振り、其後、刮目に値す、御安堵あれ。即ち謹賀新正の餅の力、御馳走の力により2分の一の能力は忽ち五分の三と進み、加ふるに懐中湯たんぽを二個抱かさるに至り更に三分の二に騰り、二月に入ると同時に、課程の頂上に登りては落ち、登りては落つといふ姿なり。今一息、今一歩。

 僕の健康に対する奥山先生の御注意厚く受く。深く謝すの旨、伝声あれ。禅書は読めど、寒時には身を寒殺する底の悟道には達せず、静座、屈伸法、冷水摩擦を用ひて寒威と善戦なしつつあり。但し、苦笑を浮べて小音に申上ぐらく、大寒に入りて流石に些か屁古垂れ、四五日前、軽き脳貧血の気味にて一日横はれり、従って体重も少々減少。されど未だ、東京時代よりは太り居れば安神あれ。寒さの峠も既に越えしやに覚ゆ。積雪三尺を越えず、秋田としては例年になき暖冬といふ。こんな事で最初の冬を通過出来れば、先づ幸ひとすべき也。

 折々我家を訪問給はる教務主任、一日訪ふて曰く『ホホー、だいぶ雪が吹き込んだナ。いや、これが秋田の不思議ぢゃて。二重硝子の所でも矢張り吹き込んで来るのぢゃ、不思議ぢゃナ、ハッハッハッ……』と。けだし、秋田蕗よりも此の方がお国自慢のやうな口振りなり。されど、秋田を初めての小生には、不思議はこれのみなあらじかし。布に包める膝小僧の凍傷。夜、着布団の表皮の濡れることなど、可なり小首をひねらされたり。兼ねて聞き及びたれど、雪雷、氷雨、怒涛の如き烈風も珍らしく、雪の凍りついた窓硝子の美しさにも驚きたり。

 雪氷雨吹き込む窓を頼みかな

 水洟や冷々として骨を滴る

 湯姿を抱いて更に愚とならむ

 今日は紀元節で、御馳走を食ってお休みだ。恨むらくは相変わらずの曇天強風。君からの手紙№4の初め三行ばかり悪かったらしい。御注意々々と申す。

 狂體一首         柿色囚屋麿 かきのいろのひとやまろ

 足引きて首をちぢめて雪の降る

   寒む寒むし夜を独りかも寝む


昭和二年三月十三日

 …恩典は予期しなかっただけ、それだけ喜びも大きかった。君の言葉の如く、これで『どれだけ心丈夫かしれない。』たとへ十八年後の遠い所にでも、兎にかく一点の光明が認められるやうになったのである。その遠い所の一点の光明が現在の心持の上に照り輝く力は大きい。私は嘗ての遺言的な一文の中に「この体は三年はもつまい」と書いて置いた。が、当所へ来てから、だんだん「なあに、さうでもない」といふ自信が出て来、更らに此の度びの光明によって、再び社会に出られるかも知れないと、夢が楽しめるやうになって来た。喜んでくれ。

 いま私の読んでゐる『旅人芭蕉』といふ本の中に、次の如き文章がある。

『自分も随分迷ったものだ、もがいたものだ、希望から焦慮へ、困憊から懊悩へ、人間として嘗めなければならぬ苦しみは大概味って来たのだが、……それは、譬へば日陰もない野を、ぐんぐんと毎日歩き続けてゐたやうなものであった。そして、それは生きるために唯一つの道だと思ってゐたのではあるが、今から考へれば、自分は生きようといふ意志にむきになり過ぎて却って本当に生きられなかったのだ。自然のままに生かして貰ふ、といふ受身の気持になりさへすればいいのであった。……』

 近頃は斯ういう言葉に、しみじみと親しさを感ずるようになった。

『獄窓から』が三月に出版されるとの事、諸君の尽力、殊に近藤君の骨折りを厚く感謝する。出たら早速送ってくれ給へ。……

『古田大次郎遺稿』を獄窓から』と一緒に送ってくれ。読ませられるらしいから。

 皆んなによろしく。

 寂しさを敲きにくるや窓霰

 金網を掻き鳴らしけり玉霰

 月の砕け落つるとばかり霰かな

 躍れ躍れ天の童の玉霰


昭和三年一月九日

地球がガタンといふ響きと共に廻轉して、此間お芽出度い昭和の三年がやって来た。

 さてお芽出度う。久さんも御年三十六歳にならせられた。君も、ふく子さんも、桂君も、公っぺいも、明坊も、皆んな間違ひなく一つだけ年をとつた事と考へる。すると、明坊は早や三つになった十露盤だな。プッ。生意気だな、たつた十四ヶ月のくせに。姉ちゃんの公っぺいは二年になれさうか。マコは何年生かな。

 五日のお休みに「クックコックの子守唄」の蓄音機を聞いて、公っぺいもこれを唄ってゐるかなと思った。そこで、僕が去年の十一月末に童謡を一つ作った事をも、ふと思ひだしたから、それを公っぺい嬢に進呈する。お年玉だよ。

冬からす

白く日の照る

冬木立

うしろは汚れた

雲の幕

からすがカァカァ

啼いて行く。

三四羽

五六羽

また三羽

「風がやんだぞ

カァカァカァ」

続いて

五六羽

また三羽

「お山が白いぞ

カァカァカァ」

白く日の照る

冬木立

うしろは汚れた

雲の幕

からすがばらばら

飛んで行く。 

 どうだ、すてきに旨いだらう。感心したなら感心したと、次の手紙の時に「ねのちゃん」に書いて貰ってよこしな。

 手紙の時にいつも俳句や歌を書いてやるのに、たまに一度位はほめて寄越すものだよ。こんどは一回やめるけれど。

「まだ機を織ってるか」なんて、何を云ふんだい。一ヶ月きりでやめたと、夏頃の手紙に詳しく書いたぢゃないか。もうあれはこりこり。

「大晦日の思ひ出」は面白く読んだ。つっするところ、近頃また米屋に借金が払えへないな。呵々。

 ふく子さん、手紙有難う。次回のを楽しく待ってゐます。

 年末、体重十四貫弱。あんまりふえてもゐなかったっけ。風邪引かず、凍傷出来ず、痔はほんの少し痛い、胃弱は慢性、お正月のお餅を食ひ残した。元日からずっとお粥を食べてゐる。もう癒るだろう。

 同封の手紙を姫路へ送って欲しい。

しんねん、おめでとう、兄さんも、姉さんも。けんいちも、ひでをも、しょうぞうも、母上も、みんな、きげんよく、よきとしをおむかへなされたことと存じます。こんなとこでも、やっぱり新年はなんとなくこゝろ嬉れしく、目出度く今年のおぞうにもいはいました。

 私は、何のわづらひもなく、また、さむさにもめげず、きげんよく、つとめてゐます故、そのだんは御あんしん下さいませ。めかたは十三ぐわん六百目あります。ただしおやゆづりのしらがは、だいぶ多くなりました。

 また時々お便りをいたします。お年の上故、さむさをおいとひ下い。

                           久太郎 拝

                                    母上さま

 




市ヶ谷から 和田久書簡

市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア

1925729日 

和田久太郎書簡 古河三樹松宛

「僕は労働組合が堕落の傾向があるからといって、その力なり、意義なりを軽視するのは大反対だ。それが堕落に向ふやうなら、猶更らその運動に向つて力を尽さなければならないと信ずる。……」

「……あき足るものは自ら創造して行く他にないよ、実行と経験の真ん中から……。」

中村しげ子宛

「昨日古河君が面会に来てくれて、君が病気で臥てゐることを知つた。…君からの手紙を受取つた。見ると<腹下し>とある。まあまあおいたはしいと申上げていいのか、望みが叶つて御芽出度うと、お祝ひ申上げねばならんのかに、また小首を傾けた。…川柳と洒落れる事にした。御受納を願ひたい。」

  姫御前の あられもなくて 腹下し


 192594
和田久太郎書簡
[橘あやめ宛]
「其後お変りもありませんか。遠くアメリカから私共の事を御心配下さる御言伝ては、いつも近藤君から有難く聞いて居ります。僕の求刑を知つて大いに驚かれた由、こんなことは米国ぢや見られないでせうが、之れが日本の国の正体なんです。

 僕は、死刑は素より覚悟の上です。九月十日にどんな判決があつても、決つしてお歎げき下さいますな。

 …村木はあの体ですから、捕つたら駄目だとは思つてゐましたが、それにしても、せめて法廷にだけは起たしてやりたかつたです。僕が思はず枕頭に涙を流したのを見て、彼は『泣いたつて…しようが…あ、あ、あるかッ』と切れ切れな言葉で僕を叱りました。そして、既に意識を失つた死体同然の体を、タンカに乗せられて監獄を出て行きました。それは一月半ばの風の激しい、寒い闇の夜でした。」


1925914
和田久太郎書簡「いよいよお別れだ…」労働無運動社宛
「川口慶介君 いよいよお別れが来た。

燕去り、雁来り、蟲地中に入り、久太赤煉瓦の底に余生を投ず、か。」奥山伸宛、望月桂宛。和田久「下獄」寸前に書簡を発信 

和田久太郎 畧歴 改造文庫版

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和田久太郎執筆記事概要 『労働運動』紙掲載

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和田久太郎執筆記事一覧、概要 <『労働運動』紙>

『労働運動』第一次

騒擾中の足尾(二) 三号 五面  1920.1.1

「<大杉栄、当地に入込み>新聞紙の報道に煽動され梅田駅から乗ったのは師走三日の正午頃、東京の土を踏むや否や本社へ駆けつけてみると足尾へ行ってる筈の大杉君は忙しそうに万年筆を走らせている。そして僕は<僕はこの頃分身術を覚えてね、アハアハアハアハ>と笑っている。……明けて五日の昼過ぎ、すっかり坑夫姿に化け込んだT君と、着物の上から印半天を着た依然たる僕とは、ゆうゆうと足尾の通洞駅に下りた。」

京都で会った人々 三号 十面

「堀田康一君、京大政治科、白労会、友愛会、ボルガ団、退学、大原社会問題研究所で働いている、東君、西川百子君、…」

評論の評論 四号 十三面  1920.2.1

「<俸給生活者>『改造』一月号<智識階級を開放せよ>『中央公論』一月号<俸給生活者の地位並びに運動の目標>批判」

生の噴出か軽挙妄動か 五号 九面  1920.4.30

「賀川豊彦説、八幡製鉄所同盟罷工」

関西版 惨めな倦怠 五号 十面

「不景気襲来……労働組合運動も厳しい変化を見せている……量より質への運動の進化打ともいえよう」

屋根裏から 五号 十一面

「四月上旬、大杉君が近畿地方を飛び廻った際、秘密裡に開いた二ヶ所の会合に種々ご助力を乞うた諸君へ、厚く御礼を云う、そしてその後京都に於て二ヶ所(一ヶ所は古くからやっている)と、神戸で一ヶ所と月三回或は四回の会合が密かに続けられている事を申し添えて置く。……我が屋根裏の貸主たる武田伝次郎君の所でも、月の五日と廿日とに、『社会主義座談会』というのがある。……」

大阪の失業と友禅職工 六号 九面  1920.6.1

「統計外の失業者、家内工業は不明……」

屋根裏から 六号 九面

「倶楽部がまだできていない、丹君が十四日治安警察法で起訴、メイデイの件、京都に支局ができた、奥田芳郎君、二十二歳、京都の笹井末三郎君、三条の侠客の三男、生家を飛び出して労働運動に侵入、二十歳の青年、」

『労働運動』第二次

大正九年労働運動の回顧 一号 五面 1921.1.25

「米騒動以後、人間的欲求へ、模範的罷工、三つ児の心に、不景気襲来、友愛会の変化、愉快な動向、」

指導者の逃亡 七面

「友愛会京都連合会主事、高山君、東君、ボルガ団を組織したのは事実だ」

統計の後に 九面

「全国職工失業統計表、統計もかなり怪しい」

集会の記(一) 二号 四、五面 1921.2.1

「いま、東京麹町区一の四四、同盟本部に於て、二つの集会が催されている。一つは月の第一と第三の日曜の夜開く、同盟座談会で、今一つは、一日と十五日の夜開く、北風会だ。同盟座談会は従来有楽町の服部洋服店二階で催された『労働組合研究会』と同盟員茶話会が合したもので、北風会は、指ヶ谷町の会場が狭くなったから、此所へ移したのだ。同盟座談会の新年会があった一月二日の夜、一寸面白い議論が交された。最初堺君が、……三行略、十八行活字潰し、更に他の議論が起った。……略………印刷工の延島君が起った。『……労働階級の心理と知識階級の心理は必ず相反するものだということをも痛切に感ずる……労働者の真の知識は労働者自身の実行の中から獲得して行かねばならない。この意味において知識階級心理に対する僕ら労働者の憎悪はヤハリ正しいのだと叫ばざるを得ない』この問題は更に十五日夜の北風会に持越された」

最近の友愛会 七面

「……最高幹部の或る人々は……『右へ廻れ!右へ廻れ!』と怒鳴っている。友愛会の底を流るる真の推進力が、これを押さえんとする所謂指導者を投げ出すに至か、或いは指導者の力で鼻先を他にヒン向けられるか、これが今後の重大な問題だ。……」

鉄道機関手の奮起 三号 二面  1921.2.10

「一月廿八日、鉄道省沼津機関庫乗務員……突然解雇された。……大日本機関庫乗務員会の熱心な会員……二月一日に支部は出来上がった。……」

集会の記(二) 二、三面

 所が十五日には帝大の基督教青年会で自由人連盟の演説会があると云う報せがあった。これを聞いた北風子は『それア一つは貰おうぢゃないか』と云うので、多くその方へ出掛けて行った為に、集まりは非常に淋しいものとなって了った。この『演説会』を貰うという事に就いては、少しく説明を加える必要がある。実にこれこそは、我が北風会の最も得意とする戦術なんだ。……さて北風会では、まづ当夜の世話人和田が同盟座談会での議論の経過を話した上で、『知識階級から……優越感は他を支配するから嫌になるが、しかし又彼等が、二三の事件で労働者の無自覚にぶつかった所から、知らず知らずにそうなって行く心持ちには、多少善悪の解釈をすべき点があると思う。』と云うようなことを述べた。信友会の鈴木君、技友会の小池君などから『いつも労働者面する和田君が今日に限って、変に知識階級を弁護するのはけしからぬじゃないか。……俺達は俺達の感情で解決して行けばいいんだ。』と大いに反対された。元来が労働者の憎悪心を賛美していた和田なんだ。こう言われるとグウの音も出ない。……演説会貰いに行った連中がドヤドヤと来た。岩佐君は『指導者』について次の如く説明した『…指導者面らする奴には、少しも人間味がない』 

大日本機関車乗務員会 七面

「温和な団体、大正九年四月十五日創立大会」「鉄道省の狼狽、『新津事件』が勃発した」「新津事件、十一月三日巖越線新津機関庫支部発会式、四名馘首」「本部書記の松延繁君が狙われる」「松延君の退会」

全日本鉱夫総連合会 四号 七面 1921.2.20

「合同の宣言、友愛会に加盟、最も有力な大産業的組合、大日本鉱山労働同盟、全国鉱夫組合、友愛会鉱山部の三つが相合し鉱夫総連合会と名乗るに至ったのはまだ昨年の十月廿日である、機関紙『鉱山労働者』第一号に『合同宣言』」「三団体の性質」「合同の動機」

新聞の警察化 五号一面 1921.3.6

「警視庁内部の若手法学士連が『警察研究会』というものを設けた、『新聞記者対諸官庁の関係を親密』にする為『各官庁と新聞社一切を打って一丸とする情報機関』を設けんとするものだそうだ。……」

日本海員同盟友愛会 七面

「大正九年一月に『日本海員同盟友愛会』と進化し、理事制を採用した」「現在の実力、神戸名古屋の両支部、下関出張所を合して約二千五六百名、それに本部の一万二千名を加えて、凡そ一万五千の会員がある」

心理と推談 七号 一面  1921.3.20

「閔元植の暗殺者、梁槿煥君が捕えられた……」

失業と赤化 二面

「友愛会東京連合会の内で電機及機械鉄工組合は最も急進的労働者に富むと云われている……」

嵐の浜松 二、三面

「…二月廿四日、借家人同盟、大阪の逸見直造、三田村四郎、東京からの岩佐作太郎、竹内一郎、渡邊満三、和田久太郎……」

シンヂカリズムの波綻 六面

「日本労働新聞の三月号に荒畑勝三論文批判」

団体の紹介 八号七面  1921.4.3

「時計工連合会、■時計工の血戦、■時計労働同盟会、■土曜会の時代■、時計工組合生る……主動者中の渡邊満三君、小出邦延君等が小池君の紹介で『北風会』や『労働組合研究会』に顔を見せる様に成ったのも、此の頃だ。……そして遂に巣鴨方面に於ける北風会員と協力し昨年九月『北郊自主会』なるものを組織した。■北郊自主会、故にこの北郊自主会は先の『土曜会』の後身であると同時に、また『北風会』の分身でもあるのだ。……渡邊満三君は時計工連合会を代表して社会主義同盟の創立発起人にも加わっている。……巣鴨宮下町一七六八の自主会には、最近まで橋浦時雄君が住んでいたのだが、今は原澤武之助、高尾平兵衛の二君が自炊している。………男子部では無政府主義とボルセヴキイとの議論が盛んだ。■連合の第一歩、本年二月寳商会の目黒時計工場に猛烈な罷工があり、時計工組合は之を応援して大勝利を博した。同月十七日、目黒時計工場職工卅名の入会を機とし、大塚倶楽部で大会を開いた。その結果更に名称を『時計工連合会』と改めた。……自主会を通じ、社会主義同盟に加入している時計工は、現在七名いる。」

駿河台から 九号 1920.4.24 一面

「和田は予定通り四月の五日に東京監獄に出かけた。たった二十日の事田から……」

市ヶ谷監獄から 六面

「『労働の世界』『産業自治』が昨日不許になった……監房から眺める夜の景色は実に詩的だね。……四月六日、近藤憲二宛」

駿河台から  十一号二面  1921.5.13

「かくて憲君はメー・デーに大奮闘し。たそして、今は東京監獄に陣取り、地方裁判所通いをやっている。そんなこんなで、一日発行の新聞も後れて八日と成った。五日(久太)」

光と闇 二面

「メーデーが近づいたので各労働団体や社会主義者がざわつき出した……警官増員■鉄道従業員…海員組合…■炭鉱労働者…」

画の讃 五面

「近藤憲二描写」

『労働者』生る 六面

「吉田一、高尾、『労働者』巣鴨宮下、……チト失望」

各地の示威 十二号 五面 1921.6.4

「メーデーの報告」

引退と猛進 六面

「植田好太郎からの便り、『大衆運動』高畠、北原」

分裂後の組合同盟と友愛会 十三号 二面  1921.6.25

「労働組合同盟会を友愛会、六月四日脱退……」

労働組合同盟会の歴史 四面

「…分裂の芽は…成立当時三つの傾向」

買いかぶるな 六面

「『労働者』第二号に『足尾争議の感想』……短文がある……ロシアの大学生…」

『正々堂々』たる屈従 六面

「足尾争議に就いて………」


『労働運動』第三次

萬朝報社の争議 一号二面 1921.12.26

「七十名の職工がいる。全員正進会員だ。……馘首者十八名」

縦断組合の続出 四面

泥棒の手紙 一号 四、五面

「岡山での逮捕」

鐘が鳴る 六面

「農村争議雑感、村八分という制度」

検束命令 六面

「府中町小作人、府中多摩両町村連合小作人組合を創った」

編集室から 第二号 一面 1922.2.1

「ほとんど真黒だった」「クロポトキンの『青年に訴ふ』を出す」

「『鉱夫諸君』というリーフレットも出す。『小作人諸君』というのを出す」「投稿が欲しい」「伊豆見正重君が加勢してくれている」「大杉は毎月一日と十五日には必ず社に来ている」

野武士的結合の傾向 二面

「多数をたよらぬ少数闘士のみの野武士的結合」

悪魔を愛せよ

「住友が持っている各工場……『工場協議会』……寄生虫住友は『工場協議会』のおかげで、安心して労働者の血を吸っている」

大井労働組合の堕胎

「鉄道省大井工場には千八百名の労働者が居る」

僕等の態度 二、三面

「十二月二十五日の夜……軍縮失業問題に就いての『関東労働組合大会』が開かれた……会場をぶっ壊す人の態度……運動だけは真面目にやってくれ」

潔癖と正当の差異 四、十一面

「……堺利彦氏……『前衛』一月号『アナキストの潔癖家』を読んで」

巧妙手柄 五面

「<ボルとアナがどうであろうといいぢゃないか>静かに地方で活動している同志から手紙を貰う」

行為の伝導、農村問題雑感 六面

「……栃木の足利郡に起こる争議……」

種々の抗議 十面

「抗議への返事」

抗議と排斥 三号 二面  1922.3.15

「関西労働総同盟内に於ける賀川豊彦君排斥熱」「大阪機械労働組合、野武士団、賀川排斥の声」

再び組合大会に就いて 三面

「信友会機関雑誌『信友』二月号小野源之助君論文『こんな物が組合大会か』批判」

醜又醜 五面

「労働組合に出入りしている新聞記者が調査会……スパイ的行動」

性格の異彩(一) 八面

「久板追悼」

名医の注射 第四号 九面  1922.4.15

「十六歳から悩まされている病気……奥山さんは名医だ」

性格の異彩(二) 十面

「久板追悼」

編集室から 第五号 一面  1922.6.1

「五月号は休刊させて貰った」「パンフレット『青年に訴ふ』は盛況だ」「社の前にある<官権>の小屋の奴が非常にうるさい」「近藤の病気は全快した」

信友会大会及懇親会 二面

「信友会は何故寂れたか」

関西労働同盟第五回大会 三面

「報告と情勢」「両派の激戦」

何んの代表 六面

「農村問題雑感」「日本農民組合…第一回大会……」

性格の異彩(三) 六面

「久板追悼」

編集室から、第六号 1922.8.1

大杉栄「……和田久が何もかもうっちゃって急に行方不明にならなければならなくなった事だ……」

編集室から、第七号 1922.9.10

大杉栄「前号で行方不明のお知らせをした和田久がようやく四五日前に帰ってきた」

安産か死産か、労働組合連合創立協議会の風雲 第八号 二面  1922.10.1

暗闇の歴史 二、三面

「大阪機械労働組合対大阪鉄工組合、……九月九日信友会本部での集まり十日の協議会……」

労働団体機関紙(二) 十、十一面

「日本印刷工組合『信友』日本労働同盟機関紙『労働』全日本鉱夫総連合会機関紙『鉱山労働者』の批評と紹介」

労働団体機関紙(三) 十面 第九号  1922.11.1

「日本労働総同盟関西労働同盟会機関『労働者新聞』」

赤き嘲り 三面  第十号 1923.1.1

「堺利彦君襲撃さる、一軍人に襲撃されて……、十二月十五日、近藤、村木が駆けつけた<新聞記事引用>、堺君に向けられた刃は即ち我々に向けられた所の刃だ」

失敗通信 五面

「十七日に村の集会に呼ばれたが駅を降りたら官権に囲まれて姫路警察に連れて行かれる」

関西版 分裂後の形勢に就いて 関西労働組合同盟会の諸兄に檄す 六面

向上会の脱皮 七面

「謂ゆる分裂の意義、眼覚めたる向上会員………大阪砲兵工厰内には約六千の労働者が居る………馘首事件……八月に大会……十一月五日分裂……向上会各支部の様子……」

お目見栄 七面

「また大阪に来てモガイて見る事に成った……場所は天王寺公園前で下車……関西自由労働組合の闘士や……僕の所には電話がある」

関西版 関西労働組合同盟会の諸君に檄す・二 六面 第十一号 1923.2.10

大掃除 六面

「今度、大阪鉄工労働組合の内部に『熱血団』というのが組織された……京都印刷工組合、関西自由労働組合、関西労働組合同盟」

同志会の新傾向 七面

「改革運動と其の苦哀、北九州の偉観、労友会対同志会、罷工最中の態度、同志会の生育、悪戦苦闘の硬派」

支局から 七面

「支局移転…一月十四日から…南区水崎町……大串、石田……『関西抹殺社』を組織……大串、石田両君とは今後労運支局は関係がない事になった……一月廿五日夜東京にて」

編集室から 十二号

近藤憲二「和田は病気療養のため那須温泉へ行った」

関西版 関西労働組合同盟会の諸君に檄す(三) 四面 第十二号 1923.3.10

「後期……二月廿三日、栃木県那須温泉にて」

編集室から 十三号 1923.4.1

近藤憲二「和田は二十日頃那須から帰る筈だ」

梅雨の世相 伊藤野枝、和田久太郎 五面 第十五号 1923.5.1

「ロシア承認、労働総同盟の本部で『対露問題労働組合大会』が最近開かれた……美談、汽車会社の争議……共産党の罷工破り」

『労働運動』第四次

大震大火による騒乱と奴等の逆襲 一面 第一号 1923.12.20

「……不意の変事に処すべき準備が余り二も欠け過ぎていたという事を、明白に物語っている。……情けない告白めいた事を云うのは嫌なことだ」

同志の消息 四面

「農村運動同盟……岩崎家の広場に避難、三日には自由人社への襲撃と検束、……農村運動同盟は自警団に占領せられ、労運社も朝鮮人が飛び込んだという理由で竹槍、棍棒、刀などの一群に襲われた。八日、労運社と農村運動同盟とは全部検束された。……団体と機関紙

愚問続々 四面

「…普通選挙……労働党、社会党の名士たちが議会で遊ばす…過激法は勿論現れまい……」

暗殺奇談 第三号 一面 1924.4.1

「一月上旬…一少年…フランス無政府主義運動…ル・リベルテルの主筆コロメル……フイリツプが射殺される」

時評 野を焼く煙 第三号 二面

「虎ノ門事件、二重橋事件などの不祥事………列車転覆させようとする怪事が勃発……一種の復習、まあ無事だ、安全弁屋…議会は民衆の安全弁……」

市ヶ谷から 第六号 二、三面 1924.12.1

「………俺は全く壮健だ。……座禅三昧……監獄にも菊が咲き初めた……からだはやはり丈夫だ。」

市ヶ谷から 第七号 四、五面 1925.1.1

「謹んで正進信友の合同の万歳を三唱する。……社会は大不景気の由……村木が一向に便りをせない由……僕は今、非常に忙しい。全くなんだ。英語と幾何とを始めたし、伝記は書かねばならず、本も読まねばならず。トテモ忙しいさ。」「冬旦……」

「消息」和田久太郎君等の接見禁止は去る十一月二十五日から解除になった。非常に元気である。

獄中閑語 第八号 二、三面 1925.2.1

「正月二日……」

市ヶ谷にて 二面 第九号 1925.4.1

「ラヂオのことまったくビックリした……」

醜い尻つ尾 三面

「和田君等の事件が予審終結となり新聞記事差止めが解除されたのは三月の七日であった。……被告の承諾がなしに決定書を発表…日本弁護士協会はこの司法官憲の処置に大いに憤慨して…抗議的質問書を東京地方裁判所所長及び検事正に送った。大正十四年三月八日及び九日、東京、大阪其の他全国各地発行の新聞紙上に……<福田大将狙撃事件の予審終結決定書発表相成候……>」

四面<爆弾暗殺事件予審決定書>

後藤君の追憶 四、五面

同志村木源次郎君を憶う 五面

句屑片々 五面

「窓外に庭巾四五間を隔てて高塀あり、時々塀越しに焚火の煙見ゆ」

市ヶ谷から 第十号 二、三面 1925.6.1

「全集の編集公正は……」

<公判廷に於ける和田久太郎> 十一号 二面

市ヶ谷から 第十一号 二、三面 1925.7.1

「昨日は御苦労だった。……しかも次回は八月十五日だっていうぢゃないか……六月二十八日付け」「鉄窓三昧、第一回公判にて、獄窓易破夢、第二回公判廷にて、帰獄して、死刑を求められて、雨に啼く鳩」

無題 十二号 一面 1925.9.1 

「村木のピストルと高畠……実質の供わない職業紹介所建設とは、直訳的労働組合主義者もなかなか忙しいや。…………」

『倫理学』を読みて 第十二号 四面 

後事頼み置く事ども

「妄執外の妄執、死体の処分、葬式、墓、死灰の処分、其他の事ども」

野郎泣くな 八面

「獄中描写」

鉄窓三昧 六面 十三号

「九月二日」

近藤憲二<其後の両名に就き同志諸君へ 古田君の死刑、和田君秋田へ> 七面

秋田から 第十四号 八面  1926.1.1

「……近藤君と共に望月君が面会に来てくれたのは大いに嬉しかった。……十二月十三日夜」

秋田から 第十五号 四、五面 1926.4.1

「大杉の写真…山鹿大次郎出生……体重……積雪」

秋田から 十七号 八面 1926.6.1

「鉄君がまだ生きて居るなら『笑って死ね』と伝えてくれ。……」

獄中にて 八面

句集「二三月、窓裏積雪、四月」



『労働運動』紙における和田久太郎執筆記事タイトル


騒擾中の足尾・二 三号五面 1920.1.1

京都で会った人々 三号十面

評論の評論 四号十三面 1920.2.1

生の噴出か軽挙妄動か 五号九面 1920.4.30

関西版 惨めな倦怠 五号十面

屋根裏から 五号十一面

大阪の失業と友禅職工 六号九面 1920.6.1

大正九年労働運動の回顧 二次一号五面 1921.1.25

指導者の逃亡 七面

第二次 

統計の後に 九面 集会の記・一 二号四面 1921.2.1

最近の友愛会 七面 社会不安 三号二面 1921.2.10

二個の集団 大日本機関車乗務員会 七面

全日本鉱夫総連合会 四号七面 1921.2.20

新聞の警察化 五号一面 1921.3.6

日本海員同盟友愛会 七面

心理と推談 七号一面 1921.3.20

失業と赤化 二面

嵐の浜松 二面

シンヂカリズムの波綻 六面

団体の紹介 八号七面 1921.4.3

批評紹介 六面 闇と光 十一号二面 1921.5.13

『労働者』生る 六面

各地の恣意 十二号五面 1921.6.4

引退と猛進 六面

分裂後の組合同盟と友愛会 十三号二面 1921.6.25

労働組合同盟会の歴史 四面

買いかぶるな 六面


IMG_3900


第三次

萬朝報社の争議 一号二面 1921.12.26

縦断組合の続出 四面

泥棒の手紙 鐘が鳴る 六面

検束命令 編集室から 第二号 一面 1922.2.1

野武士的結合の傾向 二面

悪魔を愛せよ

大井労働組合の堕胎

僕等の態度

潔癖と正当の差異

巧妙手柄 五面

行為の伝導 六面

抗議と排斥 三号二面 1922.3.15

再び組合大会に就いて 三面

醜又醜 五面 性格の異彩(一) 九面

名医の注射 第四号 九面 1922.4.15

性格の異彩(二) 十面

編集室から 第五号 一面 1922.6.1

信友会大会及懇談会 二面

関西労働同盟第五回大会 三面

何んの代表 六面

性格の異彩(三)

安産か死産か 二面 第八号 1922.10.1

暗闇の歴史 二面

労働団体機関紙・二 十面

労働団体機関紙・三 十面 第九号 1922.11.1

赤き嘲り 三面  第十号 1923.1.1

失敗通信 五面

関西版 分裂後の形勢に就いて 

関西労働組合同盟会の諸兄に檄す 六面

向上会の脱皮 七面

お目見栄 七面

関西版 関西労働組合同盟会の諸君に檄す・二 六面 第十一号 1923.2.10

大掃除 六面

同志会の新傾向 七面

支局から 七面

関西版 関西労働組合同盟会の諸君に檄す・三 四面 第十二号 1923.3.10

梅雨の世相 伊藤野枝、和田久太郎 五面 第十四号 1923.5.1
神戸の大杉栄拡大




第四次 

大震大火による騒乱と奴等の逆襲 一面 第一号 1923.12.20

同志の消息 四面 

愚問続々 四面
大杉栄葬儀拡大1


 

暗殺奇談 一面 第三号 1924.4.1

時評 野を焼く煙 第三号 二面

市ヶ谷から 二面 第六号 1924.12.1

市ヶ谷から 四面 第七号 1925.1.1

獄中閑語 二面 第八号 1925.2.1

市ヶ谷にて 二面 第九号 1925.4.1

後藤君の追憶 四面

同志村木源次郎君を憶う 五面
村木肖像写真
 

句屑片々 五面

市ヶ谷から 二面 第十号 1925.6.1

市ヶ谷から 二面 第十一号 1925.7.1

「倫理学」を読みて 四面 第十二号 1925.9.1

野郎泣くな 八面

秋田から 八面 第十四号 1926.1.1

秋田から 八面 第十七号 1926.6.1

獄中にて 八面  

IMG_3902
 

「和田久太郎意見陳述

和田久太郎が福田雅太郎を狙った理由は本人が意見陳述で述べてい

るが、これまで「大杉栄虐殺への復讐」という部分だけがクローズ

アップされてきた。秋山清の記述も例外ではなく『ニヒルとテロル』

の<酔蜂・和田久太郎>一九五七年。「関東大震災のとき大杉栄、

伊藤野枝らが殺害されたことの報復を念として…」八七頁。<アナ

キスト・和田久太郎>一九七一年、においては「和田久太郎はもし

大杉暗殺の復讐としての福田暗殺に成功すれば…」ニ九六頁。しか

し本人は大杉復讐のためだけではないことを法廷で語っている。

和田法廷


『労働運動』紙掲載

 1925年6月27日。和田君は第三回公判廷にて左のやうに言つた。

「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、

一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』など

といふ嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者や鮮

支那人が虐殺されたことに対する復讐である。その当時、流言蜚語

を放つた者を厳罰する法令が出て、その流言蜚語を取り次いだ者の

二、三が罰せられた事は白日公然の事実であるから、即ちその流言

蜚語を放つた犯人が時の政府でなく、警視庁でなかつた事も、確か

に白日公然の事実である。然しながら、それと同時にあの当時、各

所に流言を放つて歩いた者の多くが、騎馬にまたがつて軍服を附け

てゐたもの、自動車に乗つて巡査の制服を着けてゐたもの等であつ

た事も、震災地にゐた総ての人々の眼に映つたところの事実である。

兎に角、あの当時『鮮人を殺せ、社会主義者を生かして置くな』と

いふ流言蜚語が盛んに行はれた。


所々に於て鮮人は群集に切り殺され、兵隊によつて銃殺された。平澤

計七君等十一名は、ただ社会主義者だといふ理由だけで、真裸体にし

て突き殺され、首をちよん切られた。何故僕が首を切り落とされた事

まで知つてゐるかといふと、その虐殺された平澤君の首と胴体の離れ

た姿が、偶然にも、当時或る人の撮つた写真の中から発見されたので

ある。然して、十六日には、吾が大杉夫妻及び六歳の甥の宗坊が憲兵

本部に連れ行かれ、諸君の知らるゝ通りの残虐極まる殺され方をした

のである。


又、ある社会主義者の宅は銃剣を着けた軍隊に襲はれ、ある者の家は

武装した青年団に襲はれた。巣鴨警察に検束された同志の中の四名は、

道場や広庭に引出されて、柔道の手で投げ飛ばされ、竹刀、厚板等で

乱打され、幾度か気絶さゝれた。吾が労働運動社は、九月一日から七

日迄の間、ただ一度二升の玄米を分配されたのみで、それ以外、一切

の食料品の分配を町内青年団から拒まれた。そして七日に、一斉に駒

込署に検束され、僕の如きは四十度近い熱で病臥してゐるのを布団の

まゝ留置場にかつぎ込まれた。かくの如き暴虐! これに対する悲憤! 

それが凝つて以つて今回の復讐となつたのである。がその数多い暴虐

の中に於いても、特に、吾が大杉夫妻及び気の毒で堪らないいたいけ

な宗坊の虐殺に対する悲憤が、尤も強く僕の心を動かした事は勿論で

ある>


第二回公判での意見陳述(1925年6月)

<今、仮に一歩を譲つて、判検事の僕に言はれた如く、また福田自身

の言明の如く甘粕の行為は決して福田大将の与り知らなかつた所だと

した所で、しかし、あの虐殺が決して甘粕等自身の自発的行動でない

といふ事に就いては、多くの眼明きの人々が明白に認めてゐることだ

らうと思ふ。それ故にこそ福田自身ですら、予審調書に『しかし、私

を命令者と和田等が思ふのも亦無理のない点もある。何うも甘粕の裁

判の時の態度が曖昧だつたので、私ですら他に殺させた者があるので

はないかと疑つてゐる。しかし、軍法会議で裁判も終つた事だから何

んとも仕方がない』と述べなければならなかつたのである。然して、

この誰も疑ふ当然の疑ひを僕が疑つて、その背後の全責任者として僕

は福田大将を睨んだのである。僕は、福田を甘粕事件の黒幕だと推定

するに役立つ三つの材料を揚げる。


第一。彼は当時の戒厳司令官である。

第二。九月二日、所々に貼り出された『鮮人社会主義者等が放火し暴

動しつつあれば、人々はよく団結して彼等に備へよ』云々の掲示板に

は、な戒厳司令官福田雅太郎と署名してあつた。


第三。当時、戒厳司令官より各青年団、在郷軍人団に発したといふ謄

写版刷りのビラの中に『社会主義者、鮮人を徹底的に取締れ』と記さ

れてあつた。


 即ち僕は、この三つの事実に思ひを潜めて、そして、前述の誰もが

抱く疑ひである甘粕の背後の、最も明白な第一の責任者として福田大

将を認めたのである。


 私は思ふ。福田雅太郎の直参旗本であつた憲兵隊は青年団、在郷軍

人団等の及びもつかない忠実さを以つて、その司令官の内訓にのつと

つて、大杉夫妻を『徹底的に取締つた』ものであり、殊に余りに徹底

しすぎて、僅かに六才の宗坊をまで『取締つて』了つたのである、と。


 しかし、これでも猶、福田が『その推定は間違つてゐる。私は甘粕

事件には少しも関係がない』といふならば、僕は福田雅太郎にお願ひ

する。


 福田も、甘粕の黒幕があるやうに疑つてゐるのだから、幸い甘粕が

のこのこ酒蛙々々と娑婆へ出て来た今日である、その疑ひを何か明白

にして貰ひたい。そしてその黒幕を発いて、僕の『間違ひ、思い違ひ』

をして翻然と改めさして慾しいものである。が、その背後の黒幕は、

余りに大きく数も多さうなので、よもや福田もそれは出来まい。出来

なければ男らしく責を負つたらどうだ。『何うも軍法会議が済んで了

つたから仕方がない』などと、暗に自分達の軍法会議をけなしてまで

その責任を避けやうといふのは、余りに軍人らしくない態度ぢやない

か。部下に絶対服従を強ゆる権力を握つてゐるものならば、仮りにそ

の部分の仕出かした誤ちとしても、甘んじてその責任を負つてこそ軍

人じやないか。」

1925.3.6 予審終結決定書

予審終結決定書
和田久太郎
村木源次郎
古田大次郎
倉地啓司
新谷與一郎
和田法廷


主文
被告人久太郎、大次郎、啓司及び與一郎に対する本件を東京地方
裁判所の公判に付す
被告人源次郎に対する本件公訴はこれを棄却す
理由
被告人久太郎源次郎は何れも無政府主義の巨頭大杉栄に私淑し豫つ
て無政府主義を奉ずる者なる所大正十二年九月一日突如帝都に襲来
したる震火災に因り帝都の大半焦土と化し人心の動揺甚しかりし為

直に戒厳令司令官の発布となり戒厳司令官陸軍大将福田雅太郎指揮
の下に之が治安を維持すると為りたるが引続き鮮人襲来社会主義者
の妄動等に関する流言蜚語行はれ民心極度の不安に陥りたる混乱裡
中戒厳司令官の下に帝都の治安維持に任じ居りたる憲兵の一部に依
り大杉栄が殺害せられたることを知るや

右被告人両名は何れもこれを以つて
右福田戒厳司令官及び時の警視庁官房主事正力松太郎の使嗾に出づ
るものと為し

心密かに該両名を殺害してこれに報復し大杉栄の霊を慰むる所あら
んと決意し各其機会を覗い且つこれに要する兇器の入手に腐心し居
りたる折から

被告人大次郎及啓司も亦被告両名と同様大杉栄に私淑し無政府主義
に共鳴する所あり曩に中濱哲事富岡誓、河合康左右、小西次郎、小
川義雄、内田源太郎等と共に東京及大阪方面に於て専ら富豪及会社
重役等より金品を強請し同年十月大次郎等が大阪府中河内郡布施村
所在第十五銀行玉造支店小阪出張所員角田芳蔵浅田實之助両名が行
金一萬二千円在中の鞄及勧業債券国庫債券等在中の折鞄各一個を携


……共犯人の一部大阪市北区天満警察署に検挙せらるゝに至りたる
を以つて被告人大次郎は東京に逃げ帰り更に富岡誓と共に朝鮮に遁
避し京城黄金町二丁目十八番地に三宅勇一なる偽名の下に一戸を構


該所に潜伏すると同時に同志を検挙したる天満警察署を爆破して報
復を為さんと注意し朝鮮の社会主義者金善姫等に委嘱支那方面より
爆弾及びピストルを入手せんとしたり

[啓司は広島県下に遁れ]
[久太郎、源次郎は右大次郎等の朝鮮に於ける爆弾入手の計画を知り
大正十三年三月頃同人等に対して該爆弾の分与を求めたるより同人
等は

右久太郎等の大杉栄殺害に対する報復の計画を知りこれに参加しこ
れに応ずることを約し被告人啓司も亦同月中当時内地に立帰り居り
たる富岡の招電に依り前記工事場より大阪市に立戻り同人と会し…


【倉地啓司の動き】……富岡誓が同月卅一日大阪にて逮捕されたる
為め啓司は京城に至りてこれを同地に在る被告人大次郎に報告し相
伴ひ東京に引返し被告人源次郎及び久太郎等と相会して其善後策を
講じ爆弾等の兇器入手の資金調達に奔走したるも調達意の如くなら
せりしより

被告人啓司は右工事場に於てはダイナマイトを多量に使用し居り其
の摂取容易なるより寧ろ同所より(十二字削除)を摂取し来りこれを
使用して被告人等の手許に於て爆弾の製造を試むるに如かずとなし
茲に大次郎と相謀り再び同年六月上旬啓司は単身広島県下に赴き……



七月中旬これを携帯して東京市に立帰り被告人大次郎と共に東京府
下平塚村上蛇窪五三二番地に島貞尚なる偽名の下に一戸を借受け同
所に於て(十二字削除)並に曩に被告人が前記工事場に雇はれ中持ち
帰り置きたる……【爆弾使用、谷中、青山墓地】


一方啓司は東京府下大山街道の山中に到り該爆弾を投擲したるも発
火装置の不完全なりしため爆発するに至らざりしも此分を除き他は
執れも相当其成績良好なりしを以つて更に(五行削除)其威力を強大
ならしめんが為め

同月卅日頃被告人啓司は京阪地方に赴き大阪市南区水崎町七百十九
番地逸見吉三方に於て被告与與一郎と面会し


右福田大将及び正力元警視庁官房主事暗殺の計画を告げ該暗殺用と
しての爆弾に使用する(二行削除)を依頼し


被告人與一郎又之に賛同の上其の後計画を作成し其製造資金調達の
ため八月上旬相共に前記上蛇窪の隠れ家に来りたる際……


【山田正一等、中浜脱獄計画、大次郎方に来訪、同志を前記北区支
所より脱獄せしむる計画あることを語り爆弾の分け前を懇請したる
より大次郎に於て之を承諾したることを聞き被告人啓司も亦之を応
諾したるが又一面被告人源次郎及び久太郎の両名は(二行削除)を携
へ福田大将の在邸の時を期し


【爆弾使用の目的、福田宅を狙う】同月十一日頃被告人大次郎に右
爆弾三個の製造を依頼したるより茲に


【中止】偶々大杉栄の遺子ネッスル死亡の報に接し源次郎が急遽福
岡に赴き数日の後帰京した為め右目的の遂行延引し居りたる内被告
人與一郎は前記目的に使用する製造に従事する為め(五十行削除)同
月十九日頃一旦帰路の上京都府(一行削除)工場を借受け同月廿三日
頃より同月廿九日頃迄の間に該工場に於て(三行削除)を製造したる
上其完成の旨を被告人啓司及び大次郎に通報した右通報により啓司
は直に之が受取の為上洛したるが…同月二六日第三回元帥軍事参議
官会議の開催あるを知りたるより福田大将が該会議に列席する途上
を擁して之を殺害せんとし…


【新聞記事誤報、失敗】
【九月一日講演会、實弾の装填しある五連発ピストル】
【和田久太郎の行動】
【逮捕を遺憾とし】
【本富士警察署に爆弾を投付けて之を爆破し因つて以つて報復を為す
と同時に人心を動揺せしめんことを決意し】

【同月三日午後六時頃…夜九時頃、潜入】
【爆弾を郵送せんと決意】
【小包爆弾の郵送】
【銀座四丁目電車軌道に差し置き】
【法律適用】

大正十四年三月六日
東京地方裁判所予審判事 沼義雄

『獄窓から』労働運動社版 表紙/口絵/目次/奥付

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句集「鐵窓三昧」其の一 和田久太郎『獄窓から』

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句集「鐵窓三昧」其の二

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村木源次郎危篤


獄窓村木1

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辞世の句

辞世

獄窓辞世3

「和田久太郎君の事ども」堺利彦

昭和三年二月××日、和田久太郎君が獄中で自殺した。…… 先ず和田君の遺著とも云うべき『獄窓から』を少し読んだ。少し読むと、あとからあとからと引続いて読みたくなる。考えては読み、読んでは考える。手紙と俳句と随筆とが無限の興味と感慨を起させる。

…… 『この上はウンと馬鹿になって、生きられるだけは生きているつもりだ』と云った彼が、とうとう矢張り自殺した心持ちも分って居る。私のような、自殺の出来そうにない弱い男は、いろいろ苦しい思いをする。彼の死んだという報知に接した時、私は胸がピタリとつかえるという感じもした。 久太の一生涯の荷がおりたのだ。

『もろもろのなやみ消ゆる雪の風』

辞世の句も嬉しい。



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